February 261998
鮒よ鮒あといく春の出会いだろうつぶやく堂やんま釣りは、鮒(ふな)にはじまり鮒に終る。そういうことを言う人がいる。小学生の頃、どういうわけか鮒釣りが好きだった。生来短気なくせに、鮒を釣るときだけは、じいっと水面のウキを眺めて飽きなかった。釣ったバケツの中の鮒は、母が七輪で焼いて残らず晩ご飯のおかずになった。……と書くだけで、そのときの味がよみがえってくる。子供だったから、作者のような心境にはならなかったけれど、季節のめぐりとともに遊んだり働いたりする人は、誰しもがこうした感慨を抱いて生きていく。いまにして、そのことが痛切にわかってきたような気がする。作者は自分の作品を俳句ではなく「つぶやき」だと言う。作品様式を「つぶやっ句」と称している。いうところの「俳句」にまでは結晶させないゾという意志の強さに「つぶやっ句」独自の考え方と心意気と美学とがあって、私は好きだ。しかし、この「句」もまた俳句からすると立派な発句にはちがいなく、たぶん俳句は「つぶやっ句」と共存して、今後の「いく春」をも生きつづけていくことになるのだろう。考えてみれば、ほとんどの俳句は「つぶやき」にはじまっているのだからである。『つぶやっ句観音堂』(1995)所収。(清水哲男) November 141999 穴惑ひ生きる日溜まりやはりなしつぶやく堂やんま季語は「穴惑ひ(あなまどい)」。冬眠すべく仲間はほとんど穴に入ってしまったのに、いつまでも地上を徘徊している蛇のことだ。それこそ「蛇蝎(だかつ)」のように蛇を嫌う人は多いが、しかし、このような季語が存在するのは、日本人にとっての蛇が極めて身近な生物であったことの証明である。嫌いだけれど、とても気になる生き物だったのだ。暖かいからといって、まだうろうろしている姿に馬鹿な奴だと苦笑しつつも、他方では少し心配にもなっている。句は逆にそんな蛇の気持ちを代弁しており、実は馬鹿なのではなく、必死に地上生活を望んでいるのだが、ついに果たせないあきらめを描いていて秀逸だ。「やはり」と言う孤独なつぶやきはまた、ついに夢を果たせない私たちのつぶやきでもある。深刻になりがちな世界を、さらりと言い捨てた軽妙さもなかなかのものだ。地味だが、とても味わい深い。再来年21世紀の初頭は「巳年」である。大いなる「穴惑ひ」の世紀になるような気がする。そのときには、誰かがきっとこの句を思い出すだろう。『ぼんやりと』(1998)所収。(清水哲男) August 022001 笹舟を水鉄砲で送り出すつぶやく堂やんま最近は軽いピストル型のものしか見かけないが、作者が子供だったころのそれは、たぶん手作りの竹製「水鉄砲」のはずである。竹筒の先端に錐や釘で適当な大きさの穴を開け、木の棒にボロ布を固く巻き付けて筒の中に押し込み、ポンプの原理で水を吸い上げては押し出す。私もよく作ったが、作ってみてわかることは、悲しいかな、なかなか相応しい標的が見つからないことである。いやしくも「鉄砲」なのだからして、何かにカッコよく命中させたいと思うのが、子供なりの人情というものだろう。それも、なるべくなら動く標的が望ましい。そこで「ちちははを水鉄砲の的に呼ぶ」(井沢正江)となったりするわけだが、いかな親馬鹿でも、そうそう相手になってはくれない。で、ついに標的を捜しあぐねた子供が思いついたのが、掲句の世界だ。思いついたというよりも、水鉄砲遊びをあきらめて、笹舟作りに移ってみたら、たまたま手元に「鉄砲」があることに気がついたのだ。おお、目の前にあるのは、まさに動く標的ではないか。だが、構えてはみたものの、せっかく作った笹舟をまともに撃って転覆させるのはもったいない。そんな意識が瞬間的に働き、射撃手としては笹舟の少し後ろの水面を撃つことで、「送り出す」ことにしたという次第。それも一度ならず、何度も何度もである。炎天下で一人遊びをする子供ならではの、淡い寂寥感も漂ってきて、懐かしい味のする句だ。『ぼんやりと』(1998)所収。(清水哲男) April 232002 囀りや少女は走る三塁へつぶやく堂やんま季 April 142005 玉浮子を引き込むものもこの世なりつぶやく堂やんま無季句。作者は釣りをよくする人のようだが、こういう句は頭の中で作れそうでいて、そう簡単にはいかないだろう。やはり、実際に何度となく釣った経験のなかから、生まれるべくして生まれた思いなのだ。というのも、傍目で釣りを見ている人には、ぐぐっと浮子(うき)が引き込まれたときに、「やった」という思いくらいしか湧いてこないからだ。釣り人にもむろん「やった」の思いはあるけれど、しかし傍目の人とは違って、釣る人には「やった」の前のプロセスがある。いっかな引き込まれない浮子を辛抱強く見つめているのもその一つであり、むしろかかった瞬間よりも、その間のことを釣りと言ってもよいくらいだ。このときに浮子は、水面下の世界とのいわば対話の道具となる。釣り人は全神経を集中して浮子をみつめ、水の中で何が起きるのか、あるいは起こらないのかを知ろうとする。そうしているうちにだんだんと、傍目の人には別世界でしかない水中が、親和的な「この世」のように溶け込んでくる感じになる。そして突然、ぐぐっと浮子が引き込まれたとき、引き込んだ魚はまさに「この世」の手応えを伝えるのであり、それは「この世」そのものが引いたと同義に近くなっている。すなわち、「この世」が「この世」を引き込むのだ。カラフルで可愛らしい「玉浮子」だけに、クライマックスの怖いほどの思いが強く印象づけられる。『つぶやっ句・ぼんやりと』(1998・私家版)所収。(清水哲男) August 292005 石段に初恋はまだ赤のままつぶやく堂やんま季語は「赤のまま」で秋、粒状の紅色の花を赤飯(赤の「飯」)になぞらえた命名だ。「犬蓼(いぬたで)」に分類。今年も「石段」の周辺に、「赤のまま」が咲く季節になった。神社か寺院かに通じている道だろう。昔ながらに風に揺れている「赤のまま」を見ていると,往時の初恋の思い出が懐かしくも鮮明によみがえってくる。その鮮明さを表現するのに、「赤のまま」の「まま」を「飯」ではなく、「儘」と洒落たわけだ。恋ゆえに、赤い記憶が冴えてくる。初恋の相手が当時の「まま」に、いまにも石段を下りてきそうではないか。むろん相手のこともそうだけれど、純情だったころの自分のことをもまた、作者はいとおしく思い出しているのである。言葉遊びが仕掛けられているが,無理の無い運びが素敵だ。私の「赤のまま」の記憶は,次の歌に込められている。「♪小鳥さえずる森陰過ぎて、丘にのぼれば見える海、晴れた潮路にけむり一筋、今日もゆくゆくアメリカ通いの白い船」。中学一年のときの学芸会で,憧れの最上級生がうたった歌だ。おそらくそのころの流行歌だろうと思われるが、タイトルは知らない。だが、半世紀以上経ったいまでもこのように歌詞を覚えているし,節をつけてちゃんと最後まで歌える。丘にのぼったって海など見えっこない山奥の村には、どこまでも「赤のまま」の道がつづいているばかりなのであった。『つぶやっ句 龍釣りに』(2005・私家版)所収。(清水哲男)
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